みなさんお久しぶりです。
晋です。

今回はlostbuddaのコラムシリーズの中で、
画家のゴッホについて特集を組んでみます。

ゴッホの名前はみなさんご存知ですよね。

登場するテオも同じゴッホである為、
以後はフィンセントとします。

 

どんな生涯だったかって
知っている方も多いと思うのですが。
知らない方も多いと思います。


今でこそ何億という価格で取引されていますが
生前、彼の絵は一枚の絵しか売れていません。
それも400フランで売れたという話です。
なんというか、すごく切ない話です。
そして最後は自分の胸にピストルを向けます。


フィンセントは
1853年3月30日に牧師である父の
第2子としてオランダで生まれます。


第1子は死産であり。
名前は
フィンセント−ウィレム−ファン−ゴッホ
この名前は第1子につけるはずの名前でありました。
様々な要因からゴッホは
自分は捨て子なのではないか?
という疑念を持ち続けたといいます。


彼は生涯女性と縁がなく、
失恋もします。
彼にとって絵画だけが彼の生きる道でした。


そんな彼の1番の理解者が
4歳年下の弟テオの存在でした。
テオは画商であり、フィンセントを支え続けました。
フィンセントはテオの経済的支援を頼りました。


フィンセントが画家を志すのは1880年頃
年齢でいうと26歳くらい?
パリの美術商会の仕事をすることにより
彼は歴史作品、現代作品を習熟した。
その時の疑問を自らの絵で
表現することができるようになった。


職業にも失敗をして、
社会に馴染めなった彼は

という
心の拠り所となるものを見つけたのです。


1882年よりフィンセントは油絵を始めます。
そこから一年でフィンセントは自分の色使いを
習得したと言われる。



ここで大事なのは
自分の色使いというところだと思います。


1883年よりフィンセントは他の芸術家と
意見が合わなくなっていき。
オランダ北部へ一人暮らしを始めます。
どんどん孤独になっていきます。


しかし私は、私の道を歩み続けねばならない。

私が探し求めなければ私は道に迷うでしょう。
ゴッホ


1885年からフィンセントはパリへと拠点を変える。
もちろんテオの経済支援。
ここでフィンセントは日本の浮世絵などの
影響なども受けます。


このパリ時代に
当時は無名の画家であったゴーギャン
印象派のピサロなどと知り合います。
フィンセントはゴーギャンを高く評価していました。


展覧会なども開催したが
彼の絵は一枚も売れなかった。


彼はパリ時代に様々な色彩理論
などを自分のものにしていきました。

夜のカフェテラス

1888年よりフィンセントは拠点をアルルへ移す
「夜のカフェテラス」
などはこの時代に描かれたものです。


オールナイトカフェでは フィンセントは以下の様に言っています。

オールナイトカフェ

カフェは人を破壊させることも発狂させたり
犯罪人にすることもできる
場所であることを表現したかった。

私はその様な場所の邪悪な力を表したかった。
ゴッホ


フィンセントには画家のための
コミューン設立という目標がありました。


また、この時代にゴーギャンはアルルを訪れ、
創作仲間として生活を共にすることになります。
だがその共同生活も わずか2ヶ月で終わります。
ゴーギャンの話ではフィンセントが短刀で
襲いかかってきたといいます。


また幻覚などに悩まされたフィンセントは自分の耳を
カミソリで切り落とし売春婦に
渡そうとするなどの奇行もありました。


この後、彼は精神病院へ入院することになります。
彼の被害妄想はどんどん酷くなっていきます。
また、この時期に唯一の理解者テオが 結婚をします。
フィンセントはテオを失うことを恐れました。

耳を切った自画像

フィンセントはゴーギャンとの離反などで精神的に
どんどん追い詰められていきました。


将来への希望、計画は完全に壊れていきました。
1889年36歳の時には進んでプロパンス地方にある
精神病院に自ら進んで入りました。

自画像 1889年9月

画家の生活というものは優しい表現を使うならば、
世間離れした生活なのだ。
私は仕事に没頭しているときはいいが、 
普通のときは半分が狂人である
ゴッホ


1889年秋 彼はたび重なる発作に苦しめられました。
収容所で生活をしていたフィンセントは戸外での
絵が描けなかった為、
毎日泣いていたといいます。


いろいろな経緯があり
1890年にパリで行われた展覧会で
初めて彼の絵が売れたのです。

だが、それが生存中に売ることが
できた唯一の絵でした。

生前売れた唯一の絵 赤いブドウ畑

 

その後も彼は激しい発作、幻覚に悩まされました。
彼はこのあと収容所を一度離れる決心をします。


1890年彼は短期間ではあるが
創作活動に取り組む事ができました。
全力を費やし病気を忘れる事ができました。
彼にとって絵はすべてだったのです。


フィンセントにさらなる試練が襲いかかります。

彼の人生で最大の理解者
であるテオの息子が重い病になり
テオの妻も不眠症などに悩まされ
テオも追い詰められていきます。
繊細なフィンセントはテオの心情を感じ
フィンセント自身も精神的に苦しみ始めます。


1890年7月27日フィンセントは
テオへ手紙を書いています。
その手紙は途中で切れてしまっています。
そしてこれがテオへ当てた最後の手紙であった。

   

~テオへの手紙~

私は君に多くのことを書きたい。
しかし、無駄のような気がして…
私の仕事の為に人生のすべてを危険にさらし、
半分精神を失ってしまった…。
普通の美術商とは少し違っていた
君を尊敬していたと私は繰り返し 君に言います…


精神的な支えとなっていた、
テオの最大の困難に、
フィンセント自身の
存在自体が危険にさらされていきます。


希望を失ったフィンセントは
1890年7月27日 
夕暮 畑へ向かい連発ピストルで胸を撃った。


彼はその場では一命をとりとめ、
自力で旅館へ戻りました。
駆けつけたテオの腕の中で
二日後にフィンセントは死んだ。

カラスのいる麦畑

自然が大変美しい時、
私は驚く程の澄んだ気持ちになる期間を経験する。
私は自分自身にもはや自信がない。
そして絵は夢のように思われる。
ゴッホ

 

カラスのいる麦畑
最後の一枚とする話もあるが、
これについては
不明であり違うという意見も多いです。


カラスが舞う畑に道が三本ある。
ゴッホは自分がどの道へいけばいいのか
悩み続けたんだろうな。。
と考えてしまいます。


またこの翌年1891年テオも
後を追うかのように亡くなります。


なんかアートの世界って切ないですよね。。。
もちろんスティーブジョブズのように生きている時に
多くの革命を起こしていった人物もいます。


ですが、やはり少数派から
始まるのがアートなのです。


例えば、 みんなを眺めていろいろ感じると思います。
家族、人生、恋人、仕事。。。
そのを見た人間が 各々のフィルターを通して
表現していくものが アートだと思います
正解はない


lostbuddaというフィルターを
通して表現された 心の中なのですね


なぜ今回ゴッホを取り上げたかというと 昔、
MORIさんがゴッホみたいな 音楽が作りたいと
言ってたのをよく覚えています。
「何この人言ってんの?」
って思いましたが、
今回、記事を書いてみてなんか言わんとしてることが
少しわかったような気がします。笑


また今後もいろいろ深い世界を
追求していきましょう。


文 2020/02 /唐沢晋

※文章の絵画画像につきましては贋作の可能性もありますのでその点ご了承ください。